自分は今、どんな感覚なんだろう。

これからはどんなふうにしていけばいいんだろう。
これからの野尻真尋は、いや、自分にこれからなんてあるんだろうか。
何に覚悟すればいい?
「...珍しいな。あんたがいるなんて」
そういって、どこかに出かけていたらしいこのバーの主藍子さんは、頭上で鳴るベルと共に店内に入ってきた。すると、先ほどまで対応してくれていた従業員は僕の前を去り、藍子さんにその場を譲るようにして他の客のもとへと行ってしまった。
「こんばんは。今日、真尋はいないんですね」
「あ、あいつは基本的にここにいるけどたまにふらっといなくなるからな」
「同じ建物の中にいるはずなのに、なんだかここは異世界みたいです」
「ははっ。そうだよなあ。仲違いしただけで、同じ建物に昔のダチがいるってのに顔一つ合わせねえってのは。そりゃあ、世界が違って見えるだろうな」
「今日はそのことを話に来たので、結構気合い入れてきたのに。真尋がいないのは残念です」
「まあ適当に呑みなよ」と空になった僕のグラスを見て、新しく何か別の酒を作りはじめた。
今日ここに出向いたのには、それなりの理由がある。皐月から聞いた夕緋のことについてだ。もう皐月は年上のお姉さんではなく、妻になってしまったが、今も必死になって夕緋のことを考えている。多少の嫉妬はなくはない。しかし、それもすべて昔の自分たちの行いが招いたことだ。許されざる事態だとわかってはいる。だが、そのことに執着しすぎることは、今後がある自分たちにとって見えない縛りとなってしまう。だからこそ、忘れてはならないが、忘れてしまうことも必要だった。だからこそ、忘れないように自分たちのことを見守ってくれる存在が必要だった。皐月には感謝しきれないほどの恩義がある。それをいつ返せるかはわからない。だから、皐月の相談にはすべて真剣に答える義理がある。旧友と議論をすることもそのうちなのだ。それに今回のことに関しては、僕たちのことなのだから。
今回話すのは、「夕緋の記憶喪失について」だ。夕緋の記憶は、花園琉輝が存在している一切のことが抜け落ちている。ほかの出来事はありありと覚えているようだ。
抜け落ちた記憶を思い出すこと。それは果たして、夕緋にとって利があることなのだろうか。残しておきたくない出来事だから、忘れてしまっているのであって、それは夕緋にとって無害とは言えないだろう。どうしたらいいものか。夕緋自身は強く記憶を取り戻したいとねがっているようだ。皐月の所見ではあったが、僕もそう思う。
それに一つ、気づいていることがあるようだ。もう一人、友達がいたことに。それに気付く発端となっているのが、真尋だ。夕緋の次に琉輝と仲睦まじかったようで、僕には感じることのできなかった強い無念があるようだ。そして夕緋と同様に、自分の行動が間違っていたのかもしれないと、微量ながらに感じているようだ。
今日はそれにも整理をつけてあげたい。きっちりと受け入れることができなくても、少しだけでも力になってやりたいのだ。
藍子さんが新しい酒を作って出してきた。黒茶色の奥に赤みが沈んだ酒だった。ソーダのはじける感覚の後に、ビリっと走る苦み。ちょこっとずつ頂くのにちょうどいい酒だと思った。徐々に菫紫のメンバーが増えてきて、店内は賑やかになった。しかしその中に、真尋の顔はなく、メンバーの往来をじっと見ていると、もしかして真尋を探しているのかと気にかけてくれた子がいた。その子曰く、そこら辺を散歩していて、もうじき帰ってくるだろうとのことだった。夏が終わり、秋も深まり、冬の足音に心を落ち着かせる夜。真尋もなかなか粋なことをするじゃないか、と酒と共に藍子さんと他愛もない話をしながら真尋の帰りを待っていた。
もう1時間経っただろうか、真尋はまだ帰ってこない。すると先ほどまで気にかからなかった客の出入りが耳に入った。がやがやしているがはっきり聞いて取れたのが「統括長」という言葉だった。出入り口のすぐで飲んでいたので、振り向くと、そこにはメンバーに抱えられた真尋の姿があった。
「どうして」
「えっとねえ...気分転換にと思って散歩してただけだったんだよ。でも...落ち葉が気になってしゃがみ込んで車が走ってるのをずーっと見てたらだんだん眠くなってきちゃって...それで寝てたらメンバーに見つかってさ」
隣に座った真尋はまるで昔の出来事を思い出すかのように、さぐりさぐり話した。
「でも、じゃあどうして。寝ていただけなんでしょう。それなのになぜ立てなかったんですか」
「あはは」
「どうして」
「やっぱりそこ気になるよねえ。うーん、僕も寝て起きて立とうとしたんだよ。でも、力が入んなくて」
僕が真剣なまなざしをしていることにやっと気づいたのか、思い直した真尋は事実を述べ始めた。どこか瞳はぼうっとしていて、どこを見つめているのかよくわからない。
「真尋は、考えてたよ~?るきのことをさ」
「もしかして、夕緋のことはもう」
「あー知ってる知ってる。洋一に教えてもらったし、皐月さんにもちょっくら聞いたしね」
やっぱり真尋も熱心に琉輝や夕緋のことについて考えている。それが悪いことだとは言わないが、今日は
「その、今日はそのことを話しに来て」
「だろうね」
「少し、見方を考えてみませんか。これからの事について」
「...」
黙り込んだ真尋は顔を落とし、頬をカウンターの台にぴったりとくっつけ、こちらに背を向けた。
「わからないんだよねえ...」
「...」
「なんで、なんで、なんで...なんで」
 
バーに一瞬静けさが走った気がした。あたりはしんとして、仄かな照明が一層その雰囲気を引き立てていた。
 
「なんで、洋一と敬矢はあの日の事忘れちゃったみたいにふるまえるのか!わかんないよ!」
「忘れているわけではありません、が」
「が?が何!?忘れられるわけないよ!ねえ!おかしいって!無理だよ!
「...」
「真尋にはさ、仕事とかないし。ここにいれば結構幸せだし。余裕が、たぶん、あるんだよね。だから、いいじゃん。あの日の事を思い出して、後悔して、自分を責めて、ときには他人になりすつけて。いいじゃん、それでも...
 
鼻をすすって、しゃがれた声で、のどにつっかえた物を必死にかき分けながら話している。
 
「夕緋はさ、もう思い出すんじゃないかな。そろそろ。同じ苦しみ、また味わうかもしれない。だけど、楽観的?じゃん、夕緋って。だから絶対に、洋一とか敬矢みたいに考えられると思うよ。そしたら真尋はそれでいい。だけど、夕緋が苦しむのもいいんじゃないかってちょっと、性格悪いことに思っちゃったよ。るきのことさ、好きだったもん。だって、友達だったから。楽しいことも、面白いことも、内緒の事も全部話してくれたし話せたよ。それのせいで、るきいなくなったんだけど。そのことが、真尋の中にずっとあって、今、夕緋の記憶と共に戻りつつあって。苦しいのは夕緋だけじゃない。真尋もだよ...。洋一と敬矢みたいに、ドライになれるくらいの関係じゃなかったもん!そこらへんどう考えてるのか知らないけど。るきのこと、ただの死だと思ってるんだろうね~。そんなんじゃないから。ニュースで流れてるような不慮の事故で亡くなった知らない人に、同情して満足するような。そんな簡単なことじゃないから!絶対!被害者遺族って、きっとこんな気持ちなんじゃない。いや、それ以上を今、体感してる。苦しい。夕緋が記憶を取り戻しちゃうことも、るきのことが頭から離れていかないことも。でも忘れちゃいけないんだよ。真尋、不器用だから、そんなことできるわけない。やろうとも思いたくない。洋一とか敬矢みたいに、冷たい人に、なりたくない!」
「冷たい...ですか。そうですよね、そんな風に思われるかもしれません。でも、それでいいですよ。洋一が、僕がどんな気持ちで夕緋と話しているか。夕緋が洋一のことを覚えていなかったとき、一番つらかったのは洋一でしょう。でも彼は全くそのことを話してくれない。僕たちを信頼してくれているからです。彼はきっと、我慢をしています。しかし、それでいい。それで、夕緋が笑っているのならそれでいい。洋一は我慢はしていますが、それが負の感情ではないんです。それは、夕緋と会話すること、夕緋が笑っていることによって浄化されていくんです。苦しみにはなりえません。きっと一つ、強くなっているんです。僕たちよりも悟って、一足先に、大きくなっています」
思ったよりも、長々と話してしまった。すると、真尋が急にこちらを振り向いてばっと僕のグラスを手に取った。
「お酒ぐらい呑ませてよね!」
そう言って、残りの酒を流し込むとグラスをだんっと置き、悶絶した。
「にっが!!こんなん呑んでるの!勝手に、勝手に大人になんないでよ!」
「ふん、苦いものを呑んだり食べたりできることが、大人になることだと思っている、と。その思考もまた、真尋の幼さなのでしょうね」
「ちょっと...!!
 
真尋は少しだけすっきりしたような顔をしていた。瞳はどこかはっきりした様子で、いつものように脱ぎ始めた。
菫紫のメンバーも加わって、その夜はどんちゃん騒ぎというにふさわしい夜になった。帰り際聞いた。泥酔した真尋はカウンターに突っ伏して寝ていた。藍子さんの作ってくれた酒は、アメールピコンハイボールというらしく、なにやらカクテル言葉に当てはめると「分かり合えたら」という意味を併せ持つらしい。
それを聞くと、眠り込んだ真尋は身震いを起こした。